F1開催の夢を追った虚業家「鶴巻智徳」のもう一つの顔(1)

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世界でも有名な画家が描いた絵画を日本人が買い漁るという、かつてない出来事が起きたバブル景気の時代。それは、今から約30年以上も前のことだったが、東京全日空ホテルとパリの会場を衛星通信でつないでオークションに参加し、ピカソが描いた「ピエレットの婚礼」を5160万ドル(約75億円)で競り落とし、一躍世界に名を馳せた男がいた。鶴巻智徳という。
そしてもうひとつ、日本にF1レースを誘致するという夢を叶えるかのような場面を世間に見せたのも鶴巻だった。大分県日田市(当時は上津江村)の広大な土地に作った全長4.674㎞のサーキットは、当初からF1開催を目指して建設された。それ故、サーキットが完成した直後の平成2年11月30日、鶴巻は日本オートポリスの社長として絵画オークションに参加した時と同じ東京全日空ホテルの宴会場を借り、さらには来賓客に竹下登元首相を招くなど華々しいオープニングパーティーを開催したのだった。

大分県でも交通網が整備されていなかった日田のサーキット場を世間に知らしめるために、鶴巻はF1レースで3度のドライバーズチャンピオンとなったネルソン・ピケがドライブするベネトンチームのスポンサーを平成2年から平成3年にかけて務める中で、サーキットのオープニングイベントには、ベネトンのビジネスパートナーとしてコマーシャル・ディレクターだったフラビオ・ブリアトーレと同チームスタッフ、そしてドライバーのピケを招くなどして、積極的にF1の誘致活動を行った。
鶴巻にとって、F1レースの誘致はバブル景気を背景にした“成り上がり紳士”の単なる見栄ではなく、F1レースという興業をビジネス化させようとする大きな賭けだったに違いない。F1の運営全体にまで影響を与える力を有していたバーニー・エクレストンに対してもF1レースを誘致するために様々なロビー活動を行っていたからで、これが実って平成5年にはF1第3戦を「アジアGP」として初開催するまでに漕ぎつけた。

しかし、鶴巻の夢はそこであっけなく頓挫してしまった。東京全日空ホテルでの華々しいオープニングパーティからわずか2年後の平成4年、日本オートポリスは倒産し、同社の親会社である日本トライトラストは総額1200億円の負債を抱えて倒産した。その結果、翌年に初の開催を予定していたF1はキャンセルとなってしまった。倒産時の負債を一人鶴巻個人が背負えるものでは無かったことは明白だったが、すでにサーキットの開場を派手に打ち上げた時点で鶴巻の計画は資金面で行き詰まっていたことが窺える。
鶴巻をF1誘致に駆り立てた背景には何があったのか。F1誘致というとてつもない挑戦は野望でしか無かったのではないか? と思われるのがごく普通の印象である。だが、鶴巻にはもう一つ、世間には絶対に晒してはならない一面があった。鶴巻が活躍できると踏んだ表舞台、F1の興業ビジネスは正にその一面からの脱却だったのではないかとさえ思えるのだ。

昭和61年1月のある日。銀座7丁目の一角に建つビルの一室に数人の男たちが集まり、その中に鶴巻の姿があった。
男たちが集まった目的、それは当時京都に本社を置く日本レースという名門企業を巡る仕手戦に係る問題処理だった。強力な資金力を背景にした仕手筋の乗っ取りをも視野に置いた攻撃に、同社が取った対策は、後に4000億円を超える背任事件で戦後最大の経済事件とも言われたイトマン事件の中核に位置することになった許永中を京都支配人に迎えることだった。許永中が放った奇手が同社の売上に匹敵する約60億円の手形を乱発したことだった。事実上、経営危機に陥るような手形の乱発で、仕手筋の攻撃は中断したが、思わぬ余波が起きた。乱発された手形とほぼ同額の偽造手形が市中に出回ったのである。鶴巻は額面総額7000万円の偽造手形を掴まされ、その解決を直接許永中にさせようとした。

協議の場に顔を見せた許永中に鶴巻は「取引絡みで損失を出すわけにはいかない。この金はオヤジの金だから」と詰め寄り、何としてでも損失を許永中の責任で回収しなければ収まりがつかないと要請した。鶴巻が口にした「オヤジ」とは、当時は構成員数千人を維持していた広域指定暴力団のトップのことだった。もちろん、鶴巻と血がつながっていた訳ではない。鶴巻はトップの“私設秘書”あるいは“金庫番”とも呼ばれており、その立場を許永中に突き付けたことで許永中も譲歩し、日本レースの株価吊り上げの提案をしたのだった。鶴巻のもう一つの顔、それは反社会的勢力の中に身を置く企業舎弟の顔だった。
「許永中は『日本レースの株価を最高で400円にまで吊り上げていくから、それで利益を出し損失を埋めて欲しい』と提案した」と関係者は言う。その時点で100円台を上下していた株価を2倍以上に吊り上げるという、大がかりな仕手戦に許永中は自信を持ち、実際にもその後、同社の株価は一時的に300円近くまで上昇したから、鶴巻は損失を回収したと思われる。

日本オートポリスの倒産によって、実業家への夢が潰えた鶴巻が負った負債は判明しているだけでも、オートポリス(サーキットに併設するホテル、美術館等を含む)の開発費だけでも約600億円とされ、債権者はオートポリスの競売を申し立てたものの落札者が現れず、サーキットを、日本オートポリスは東京地裁で破産宣告(負債約900億円)を受けるに至った。ちなみにサーキット場はゼネコンのハザマ(現安藤・間)が債権回収名目で引き取り、その後、2005年に川崎重工が買収し、2輪のロードレースイベントが開催され活気を取り戻すことになった。

見てきたように、バブル景気の渦中での鶴巻は波乱万丈で話題に事欠かなかったが、米国の競馬界で連勝を重ねたエーピーインディ(エーピーはオートポリス=AutoPolisの頭文字)を筆頭に有していた約60頭の競走馬、日田のサーキットに併設する美術館に収納する予定にあったピカソを始めシャガールやモネなど高名な画家たちが描いた絵画の作品群、東京目黒の土地を始めとする不動産などが多くの債権者によって回収の対象となったのは当然の成り行きだった。そしてその、鶴巻に対する債権債務の処理を巡っては、いくつもの隠れた攻防やドラマがあった。(以下次号)

2023.06.20
     

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